今回ご紹介するのは、イギリスを代表する作家・チャールズ・ディケンズ先生。
チャールズ・ディケンズといえば、
- クリスマス・キャロル
- オリバー・ツイスト
- デイヴィッド・コパフィールド
- 二都物語
- 大いなる遺産
などのヒット作を多数生み出した、ヒットメーカー。
特にクリスマス・キャロルはさまざまなかたちで映像化がされているので、知っている方も多いのではないでしょうか。
そんな天才作家のディケンズですが、実は、かなり壮絶な人生を歩んでいます。
それでは、これからディケンズの知られざる「マジか!な真実」をご紹介していきます。
ディケンズの生い立ち
1:愛読家だった幼少期
時は19世紀初頭のイギリス。中流階級の家庭に生まれたディケンズ。
体が弱く病気がちだった彼は、幼少の頃から本が大好きで、10才になるまでに、
- アラビアンナイト
- ロビンソン・クルーソー
- ドン・キホーテ
などの作品を愛読していて、当時から脚本や物語を書いて過ごしていました。
屋根裏部屋には父親の蔵書がたくさんあり、さまざまな本を読み耽っていたそうです。
2:浪費家の父のせいで貧乏生活
しかし、ディケンズの父親・ジョンは手のつけないようがないほどの浪費癖があり、生活はかなり貧しいものでした。
徐々に生活がままならなくなると、ディケンズ一家はスラム街のボロ屋に引っ越すことに。
挙げ句の果て、1824年にはなんと家が破産!
さらには、父親・ジョンが、わずか40ポンドの借金が払えなかったために、当時流行していた債務者監獄へ送られることになってしまいます。
3:靴ずみ工場で働く
仕方なく一人家元を離れて、わずか12歳のディケンズは靴墨工場で働くことに。
ねずみの這い回る工場で、朝8時から夜8時まで、靴墨を瓶に詰めたり、ラベルはりをするなど、わずかばかりの賃金で働く労働者になってしまいます。
彼は作家人生で、生涯、貧困をモチーフにして作品を描き続けますが、このときの強烈な原体験が物語のベースになっているのです。
ちなみに、この工場労働、実は5ヶ月間ぐらいで終わっているんですが、このときの出来事をディケンズは生前ほとんど語ることはなくひた隠しにしていました。
本当に辛くて辛くてしょうがない体験だったようです。
しかし、オリバー・ツイストや、ディケンズの自伝的小説「デイヴィッド・コパフィールド」の中でもこのときの体験はありありと語られていますね!
ディケンズの青年期
4:ディケンズの恋愛
父親の借金騒動はディケンズの恋愛事情にも大きな影響を与えています。
18歳になるころのディケンズは、財産と美貌を兼ね備えて皆のマドンナと言うべき存在だった銀行家の娘マライアと婚約をしてました。
しかしディケンズの家庭が経済的に苦しいことが発覚すると、彼女の親から猛反対をされてしまいます。
ディケンズ自身も当時は駆け出しの記者をしていて、当然、お金もなく、結果的に婚約を解消することになりました。
この失恋でディケンズは精神的に追い込まれ、筆を持つ気力も失ってしまったとのこと。
5:作家デビュー
しかし、ただでは転ばない不屈の精神をもったディケンズ。
失意のどん底にいたディケンズはこの失恋すらバネにして、ひたすら成功を目指し、
20歳そこそこで作家としてデビューするやいなや、あれよあれよという間に、人気作家の座を手に入れることになりました。
もしかしたら、この失恋がなければ、ディケンズの作家デビューはもっと後になっていた可能性もあったりなかったり。
6:キャサリンとの結婚
銀行家の娘マライアと破局したディケンズは、その後、編集者の娘と恋仲になりました。
それがのちに妻となるキャサリン・ホガースです。
キャサリンの父は、ディケンズの編集者で、ディケンズを作家の道に導いた立役者でもあるのですが、
ディケンズは小説家としてデビューしてすぐに、キャサリンと結婚。
翌年には、第一子も誕生とおめでたい出来事が続きます。
7:メアリーへの恋心
しかし、これが新たなるマジか!な始まりでもありました。
結婚したのも束の間、ディケンズはあろうことか、キャサリンの妹、メアリーに恋をしてしまうんですよね。
ディケンズは母親になった妻に対して、純粋な恋心が冷めてしまったようで、すぐに結婚を後悔するまでに至ります。
なかなかの破天荒野郎なディケンズ。
その後、妻の妹、メアリーは17さいと若くしてなくなってしまうのですが、ディケンズはメアリーの死をうけて、とてつもない深い悲しみにくれたのだとか。
8:キャサリンとの夫婦仲
すでに妻との結婚をすら後悔していたディケンズなので、このまま妻とは疎遠になってしまうのかな、と思いきや。
そこがディケンズのまたすごいところ。
ディケンズはその後、妻キャサリンとの間に、10人の子供をさずかっています!
おそるべしディケンズ。
キャサリンへの愛情は結婚しょっぱなから薄れているにもかかわらず、10人の子どもですからね。
ディケンズのとんでもなさがわかりますね。
ちなみに、ディケンズは20年近くキャサリンと結婚生活を送り、離婚をすることになりました。
その後も色恋沙汰にうかされ続けたディケンズですが、これもまた創作活動に生きていたことは間違いありません。
ディケンズの作家魂
9:独学の天才
58年の生涯で多くの作品を生み出してきたディケンズ。
長編小説としては15冊を残すほど精力的に物語を書き続け、
彼の作品はドフトエフスキーやカフカ、プルーストといった世界の大作家たちにも多大なる影響を与えています。
しかし、多くの作家たちとディケンズが異なる「マジか!」な一面がまだあります。
それはディケンズが学校教育を受けずに、ほぼ独学でイギリス一の作家にのしあがったことです。
ディケンズが受けられた学校教育といえば、すべてあわせてもせいぜい4年間程度にしかなりません。
しかも、小学校の教育課程だったそうです。
10:容量がよすぎる
12さいにして汚い靴墨工場で働きに出され、
途中学業に戻ることができたものの、経済的な事情から、15歳の頃には再び、働きにでることになります。
もう大学教育とか全く無縁のディケンズ少年。
しかしディケンズはここでも鋼の意志をもって、作家への道を突き進むことになります。
15歳から職を転々としつつも、当時、難関とされていた速記術を並々ならぬ要領で身につけると、なんとその一年後には英国随一の速記記者として注目される存在になっていました。
11:デビューからの快進撃
そして、超多忙な生活の中でも、短い原稿をこつこつと書き溜めため、念願かなって、21歳のときに、初めて雑誌に作品が掲載されました。
それが後にディケンズの処女作「ボズのスケッチブック」へと繋がることになったんです。
そして2作品目となる「ピックウィック・ペイパーズ」では、40000部という当時、前代未聞といわれる驚異的な売上を記録。
24さいにしてディケンズは一躍、トップ作家にのしあがりました。
そして3作目には「オリバー・ツイスト」を発表と、デビューからの快進撃がひたすら続きます。
その後も、作家としての才能を発揮しまくりだったことは言うまでもないことです。
ディケンズはまさしく雑草魂をもちあわせた「マジか!」な天才作家だったんですよね。
12:大作家を失ったイギリス
ディケンズは58歳で亡くなるまで作品を書き続け、彼の訃報はイギリス本土はもちろん、ヨーロッパ諸国、アメリカ、オーストリアにも伝えられ、ヴィクトリア女王からも弔電が寄せられたとのこと。
そして訃報の5日後には、市民数千人が4日間にわたり参列をしました。
まとめ
今回はイギリス文学だけでなく世界の文学を変えた作家。
チャールズ・ディケンズの波乱に満ちた生涯をご紹介しました。
参考文献
チャールズ・ディケンズ「生涯と作品」 三ツ星堅三
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